【言語と人格】日本語の「私」、英語の"I"、表現に隠れる自我
緊張の『俺』デビュー
『俺』デビューとは、自分のことを『俺』と言い始めることだ。
小学生2年か3年くらいだったか、このとき『俺』デビューしようと思い、勇気を出して自分のことを『俺』と言ってみた。
すると家族から、カッコつけんなとブーイングをくらった。『僕』と言うのにもそろそろ抵抗があったし、『俺』というのも少しくすぐったい。だから、その出鼻をくじかれたことで、その時から自分の話しをする時に自分のことををなんて呼べばいいのか、分からなくなり、家族に自分のことを話すのがトラウマになっている。
英語なら ”I”
英語なら”I”で片付く話しなのに、日本語には「僕」、「私」、「俺」、など色んな表現がある。
しかもそれぞれ、かわいさや、カッコつけてる感など、いろんなニュアンスを纏っている。
これをどう使い分けているかというと、話す相手や話す場所によって使い分けることになる。つまり、話しをするその環境によって主体の形が変化している。
自分の話がしたいだけなのに、この微妙な表現の違いで自分を否定されてしまうことにすごく違和感を感じている。
敬語もそう、英語でも丁寧な言い回しはあるが、日本語ほどキメ細やかな神経は使わないと思う。
本当に表現したいことがストレートに表現できなくなっているような気がして仕方がない。
それが日本らしくもあり、日本語の良さを感じると思うところでもあるが、この事を意識してから、日本語に比べてストレートな英語に憧れていた。
自分にあった言語を
自分の性別に違和感を感じる人がいるように、自分のファーストランゲージに違和感を感じる人もいるんではないかと思っている。
自分を表現するのに一番マッチする言語をちゃんと探した方が、幸せになれるんじゃないかと、思ったのでした。